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2006年02月03日

福岡県の観光案内

福岡県の観光案内

福岡県指定文化財梵 鐘

現在今井の浄喜寺(じょうきじ)にあるこの梵鐘は、室町時代の応永28(1421)年に彦山霊仙寺大講堂の洪鐘として、豊前今居金屋で鋳造されたものである。
しかし、明治維新の際、神仏分離令により霊仙寺がなくなったため、梵鐘は生まれ故郷ゆかりの浄喜寺に帰ってきた、と伝えられている。
銘文によると、作者は今居に住んだ鋳物師(いもじ)大工、左衛門尉(さえもんのじょう)藤原安氏であり、「作料助成」とみえることから、梵鐘の製作費用は安氏が彦山権現に寄進したものとみられる。
 この地に残る金屋(かなや)の地名は、鋳物師(いもじ)と呼ばれる専門職人の集落があったことの名残りであろう。
 今居の鋳物師が活躍したのは15世紀のことで、ここで鋳造された製品は北部九州から山口県にまで及んでいる。その後この地の鋳物師は小倉城下の鋳物師町に移っていったといわれている。
 この梵鐘は、今居鋳物師が製作した現存する数少ない遺品として貴重である。

求菩提資料館



わが国の宗教は山岳信仰に始まると言われます。その山岳信仰をベースに、東北アジアのシャーマニズム、中国の道教、そして密教が結びついて成立したのが「修験道」と呼ばれる神仏習合の宗教です。
 信仰の山としての求菩提山の歴史は5〜6世紀にさかのぼるとされますが、12世紀初め頃(平安末期)に旧豊前国宇佐郡出身の僧、頼厳(らいげん)によって、ここに修験道がもたらされることになります。それ以来、明治元年(1868)の神仏分離令まで、天台宗護国寺を中心に、求菩提山は九州を代表する一大修験道場となりました。
求菩提山は平成13年8月13日、国の史跡に指定されました。



求菩提資料館第1展示室

 ここに常設展示がなされています。

豊前地区(行橋・豊前)の宿泊施設一覧

行橋市観光協会 豊前市観光情報センター




北原白秋記念館

立花12万石の城下町として古い歴史を持ち、北原白秋詩歌の母体となった水郷【柳川】。
この街には、有形無形の文化遺産が数多く伝承され、詩聖北原白秋の遺品など多数見ることができます。
これらの貴重な文化財を保存し、展示公開するために、昭和60年白秋生誕百年を記念してこの記念館(資料館)がオープンしました。
北原家の広大な旧跡地の一隅に建てられた記念館の外観は、柳川独特の“なまこ壁”の土蔵作りとなっています。館内では、水郷柳川の民俗資料や白秋の詩業を紹介。楽しく見応えのある記念館となっています。

北原白秋生家

明治18年、柳川・沖端に誕生した北原白秋の生家は、代々屋号を「油屋」とか「古問屋」と称する海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも一、二をあらそう酒造業を営むようになりました。
当時の北原家屋敷は、一町三反という広大な敷地を有し、母屋との間には、流れのきれいな掘割りがありました。
しかしそんな生家も、明治34年の沖端大火災で大半を焼失。
母屋と一つの穀倉だけが難を逃れ、昭和44年11月に復元され、平成元年2月には母屋に附属していた隠居部屋も復元されました。
現在、この生家内には白秋の著書や遺品、さらには柳川の風物にゆかりの深い資料が数多く展示されています。
この生家は、記念的な建物であると同時に、柳川地方の明治時代の商家の形態を知る上で、重要な建物といえます。


筑後地区(久留米・筑後・八女・柳川・大牟田)の
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地域の観光案内
大牟田観光協会 久留米市観光コンベンシヨン協会 田主丸町観光協会
柳川市観光協会 筑後市観光協会 小郡市観光協会 広川町観光協会




太宰府天満宮

御本殿と飛梅

境内に入ると右側の老樟下に

『東風吹かばにおいおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ』

菅公御神詠の歌碑が早春の梅花匂う参道に向かって建立され、御神徳を慕って詣で来る人々に、なつかしく仰がれる。梅花を愛された天神さま、大宰府へ西下の時、京の紅梅殿の梅にこの歌を詠まれると、梅花は、はるばるとみあとを慕って配所大宰府の菅公のもとに飛んできました。
それが、「飛梅伝説」です。
御本殿の右前の御神木『飛梅』は、千有余年たった今日も毎年神苑で最初の清香の花を咲かせ「飛梅さま」と愛されています。

筑前地区(宗像・飯塚・原鶴・二日市・筑紫野・甘木)の
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中洲の歴史

福岡藩が福岡と、博多をつなぐため那珂川に土砂を積んでできたデルタ地帯が中洲の始まり。
明治時代には、東中洲に電灯会社や電話局などが開設され、また劇場や映画館も開場し博多の演劇界の中心として発展していきました。
大正初期からカフェ、バーが流行し一躍博多の盛り場として栄え、一大歓楽街地として今日に至っています。


福岡市内(福岡・前原)の宿泊施設一覧

地域の観光案内
中洲観光協会 福岡観光コンベンションビューロ 前原市観光協会
津屋崎観光協会




小倉城

小倉城細川忠興の造った小倉城の天守閣は、「唐造り」と呼ばれ、4階と5階の間に屋根の庇がなく、5階 が4階よりも大きくなっているのが特徴です。
城下町を囲む外堀は、現在の砂津〜中津口〜香春口〜豊後橋〜金田〜竪町を結ぶ約8キロメートルになります。 石垣は切石を使わず、足立山から運び出した自然の形の石を積み上げて造っています。
昔の天守閣は1873年(天保8年)に焼けてしまい、今の天守閣は1959年(昭和34年)に建てかえられました。

小倉のキリスト教

(戸市立博物館蔵)

フランシスコ・ザビエル1549年(天文8年)、スペイン人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、平戸(長崎県)・博多・小倉・山口と伝道活動を行ないました。
毛利勝信が城主の時、小倉のキリスト教信者が増え始め、細川氏の代となってからはさらに増えたといわれます。
忠興の妻・玉(洗礼名:ガラシャ)は関ヶ原の戦いの数日前に亡くなったのですが、忠興は小倉でキリスト教を保護しました。江戸時代の初め、小倉城下にはキリスト教信者が2千人いたと記録されています。     
ところが、1612年(慶長17年)、忠興は急にキリスト教を禁止する命令を出しました。そして、教会を壊したりキリスト教信者を処刑したりしました。
これは、江戸幕府がキリスト教が国を乱すと考え、禁止するように命じたからです。
小倉藩はキリスト教信者を見つけるために、キリストやマリアの像を踏む「踏絵」を させました。
こうして、小笠原氏の代にはキリスト教信者はほとんどいなくなりました。 
                                                

北九州市内(小倉・門司)の宿泊施設一覧

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